一年のあゆみ_2024年度
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 私たちの脳は視覚や聴覚、運動など、それぞれ異なる機能を担うさまざまな神経回路が連携することで成り立っている。 神経回路は、「シナプス」と呼ばれる結び目を介して神経細胞が繋がり、情報をやり取りすることで形成される。 ヒトの脳には約1,000億個の神経細胞があり、それぞれの神経細胞に1,000~1万個のシナプスが存在するので、この膨大な数のシナプスの総数は1,000兆個に達するとされている。 このような多様で複雑な神経回路をわずか約2万個の遺伝子だけで特異的にコードすることは不可能である。 実際には、シナプスは発達期に遺伝情報に基づいて形成されるだけではなく、生後の環境や経験、学習によって、生涯にわたってその形態や機能が変化することが分っている。 さらに、統合失調症・自閉症・アルツハイマー病といった多くの精神神経疾患や発達障害の患者さんでは、特定の脳領域間の結合が過剰または不足していることが明らかになっている(図1)。 fMRIなどを用いて可視化される脳領域間の結合は、数万以上の神経細胞の活動の平均値として捉えられるが、その基盤となっているのは個々の神経細胞間をつなぐシナプスである。 また、これらの精神神経疾患や発達障害では、シナプスに存在するタンパク質をコードする遺伝子に多くの変異が見つかっている。 このような背景から、多くの精神神経疾患や発達障害は「シナプス病」として捉えるべきである、という考え方が提唱されている。 そのため、シナプスがどのように形成・維持され、さらにその機能がどのように変化するのかを解明することは、シナプス病の病態を理解し、新しい診断や治療方法を開発する上で非常に重要な課題となっている。 脊椎動物の脳では、シナプス前部にある神経細胞が興奮すると、グルタミン酸が放出される。 グルタミン酸は、シナプス後部の神経細胞に局在するAMPA型グルタミン酸受容体(AMPA受容体)に結合し、数ミリ秒以内にシナプスを越えて興奮を伝達する。 このような神経伝達の効率は一定ではなく、環境の変化や学習に伴って神経活動が変化すると、伝達効率が長期間にわたり増強されたり抑圧されたりする。 この現象は、それぞれ長期増強(Long-term potentiation: LTP)および長期抑圧(Long-term depression: LTD)と呼ばれ、特定の神経回路におけるシナプスが記憶を貯蔵する仕組みとして、世界中の研究者によって50年以上にわたり研究されてきた(図2)。 これまでの研究により、LTPやLTDの実体は、シナプス後部に存在するAMPA受容体の数(密度)が増減する現象であることが明らかになった。 AMPA受容体は神経細胞の表面に存在するだけでなく、細胞内にもプールとして蓄えられている。 LTP時には、このプールから細胞表面にAMPA受容体が輸送される(エキソサイトーシス)。 一方、LTD時には細胞表面のAMPA受容体が細胞内プールに輸送される(エンドサイトーシス)。 これにより、シナプス後部におけるAMPA受容体の数が精密に制御される仕組みとなっている。 この輸送過程に関与する分子をコードする遺伝子を破壊すると、LTPやLTDが正常に起こらなくなるだけでなく、個体レベルで記憶や学習に障害が生じることが示されている。 しかし、個体レベルでの記憶や学習が、どの神経回路のシナプスにおけるLTPやLTDとして貯蔵されるのかについては、未だ解明されていない点が多い。慶應義塾大学 医学部 生理学 教授柚□ 通介博士(医学)1. はじめにシナプスありき2. 機能的なシナプスの変化を光で探る新しいシナプス接着機構の解明と神経機能操作法の開発-248【図1】 多くの精神神経疾患は「シナプス病」である この度は2024年度上原賞をご授与いただき誠に有難うございました。 錚々たる歴代の受賞者の末席に名を連ねることができ、大変光栄に存じます。 推薦にご尽力いただきました御子柴克彦先生、日本神経科学学会、そしてご選考いただいた選考委員の先生方や財団関係者の皆様に、心より厚く御礼を申し上げます。 今回の受賞は、これまで私とともに研究を進めてきた教室関係者や共同研究者の皆様との成果を評価していただいたものと受け止めております。 関係者の皆様に深く感謝申し上げるとともに、共に喜びを分かち合いたいと思います。 この受賞を励みとし、シナプス形成・維持機構の理解をさらに深めることで、精神・神経疾患の病態解明や新しい治療法の開発に貢献していきたいと考えております。 受賞講演では、これまでの研究の成果と今後の展望についてお話しさせていただきます。上原賞受賞講演録

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