この原因の一つとして、記憶や学習に関与する神経回路が複数存在し、それぞれの回路でLTPやLTDが生じることが挙げられる。 また、一つの神経回路におきた変化が、長期的には他の回路の変化として代償されるため、特定の神経回路のシナプスでのLTPやLTDと個体レベルでの記憶や学習との因果関係を明確にすることは難しい。 小脳は、神経細胞の種類が少なく、神経回路と個体レベルでの行動との関係が最も明確になっている脳部位である。 小脳皮質から唯一の出力を送るプルキンエ細胞は、顆粒細胞からの平行線維と下オリーブ核からの登上線維という2種類の興奮性入力を受ける。 1970年代初頭にAlbusとMarrは、小脳皮質の構造を基にした学習理論を提唱した。 プルキンエ細胞には顆粒細胞を介して末梢器官や大脳皮質からの感覚信号や運動信号が入力され、この直後に登上線維からの入力が加わると、平行線維とプルキンエ細胞間のシナプスにLTPあるいはLTDが生じる、という理論である。 この理論を初めて実験的に検証したのは、伊藤正男らによる研究である。 彼らは、眼球運動学習を用いて実験を行った。 たとえば動物が首を左右に振った際に眼球が逆方向に動く前庭動眼反射が、網膜からの視覚情報によって調整される現象、「前庭動眼反射の視性調節」である。 その結果、眼球運動学習は、小脳片葉における平行線維―プルキンエ細胞シナプスのシナプス伝達が、網膜からの誤差信号(視覚のずれ)によって引き起こされるLTDによって制御されていることが明らかとなった。 この成果は、小脳の学習メカニズムを説明する理論として広く認知されるようになり、提唱者の頭文字(Marr, Albus, Ito)を取って「MAIT理論」と呼ばれている[1]。 その後、小脳LTDに関与する分子を欠損させたマウスでは、小脳切片においてLTDが起きないだけでなく、眼球運動学習も障害されることが示され、MAIT理論の正しさが裏付けられた。しかし近年、LTDが障害されているにもかかわらず眼球運動学習が正常である遺伝子変異マウスや、逆にLTDが正常であるにもかかわらず眼球運動学習が障害されるマウスが報告されている。 後者のマウスではLTPが障害されており、眼球運動学習においてLTDとLTPのどちらが主に関与しているのかについての議論が勃発した[2]。 このような問題に終止符を打つためには新しいツールの開発が必要であろうと考えるに至った。特に、他の神経回路や分子機構による代償を防ぐためには、できるだけ急性に、かつ可逆的に、狙ったシナプスのLTPとLTDを制御できるツールが必要である。 これまでの研究の過程で、LTD時にはAMPAR受容体が初期エンドソームから後期エンドソームを経てライソソームに輸送され、この過程でエンドソーム内腔のpHが低下することを私たちは見出した。 この結果に基づき、神取らによって発見された光感受性内向きプロトンポンプであるASR変異体を初期エンドソームに発現させ、光照射によってエンドソーム内腔を中性化しエンドサイトーシスを阻害できるツール「PhotonSABER」を開発した(図3)[3]。 PhotonSABERを小脳で発現させたマウスを用い、眼球運動学習を観察した結果、小脳への光照射によってゲイン増加学習が完全に阻害された(図4)。 この結果は、小脳片葉の平行線維―プルキンエ細胞シナプスにおけるLTDが眼球運動学習に必要であることを初めて直接的に証明したものである。 また最近、LTP時にはライソソームがシナプス近傍で分泌されることが必要であることを発見した(図3)。 これを基に、神取らによって発見された光感受性内向きプロトンポンプPoXeR変異体をライソソームに発現させ、光照射によってライソソーム分泌とLTPを阻害できるツール「LysopH-up」を開発することにも成功した。 このツールを用いた研究により、ゲイン低下学習が小脳片葉の平行線維―プルキンエ細胞シナプスにおけるLTPによって担われることが明らかになった(図4)。 これらの光遺伝学ツールは海馬や大脳など他の脳領域にも応用可能であり、シナプスにおける機能的変化(LTPやLTD)と個体レベルの高次脳機能との因果関係を解明する強力な手段となっている。 また、精神・神経疾患の病態理解や治療法の開発にも大きく貢献することが期待されている。短中期の記憶は、興奮性シナプス達応答の長期的な上昇(LTP)や低下(LTD)として貯蔵される。しかし個体レベルの記憶・学習との因果関係はよく分っていない。PhotonSABERとLysopH-upは、初期エンドソームおよびライソソームの内腔側のpHを光照射によって低下することによって、LTDとLTPを可逆的に急性に阻害する。PhotonSABERとLysopH-upを用いて、眼球運動学習のパラダイムに応じて、LTDとLTPが使われることが判明した。49【図2】 短中期の記憶とシナプスの機能的変化【図3】 光でLTDとLTPを制御する【図4】 眼球運動学習はLTDとLTPが担う
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